2016年 07月 02日
省線 阿佐ヶ谷駅 |
昭和36年に地下鉄丸ノ内線の南阿佐谷駅までが開通するまで、最寄りの駅は、中央線の阿佐ヶ谷駅でした。丸ノ内線が荻窪まで開通したのは、翌37年でした。オリンピックの二年前です。その開通により翌38年の暮れに都電が廃止されたのです。
その頃までは、国電(JR)の電車のことを『省線』と呼んでいました。戦前の鉄道省の線路という意味なのでしょう。中央線はその省線の駅だったのです。その頃の電車は、昔からの濃い茶色の車体で、戦前からの車両を使ってもいました。昭和32年頃から、101系のオレンジ車両として、快速に使われるようになってきました。それから、50年間も中央線ではオレンジ色の車両が使われてきたのです。大阪でも、環状線に使われていて、親近感と同時に大阪で走るオレンジ車両には、違和感も感じていました。
中杉通りが出来て、欅の並木がようやく植えられた頃は、阿佐ヶ谷駅の踏切もまだ大きくはなかったのです。
その反対側から見ると、左に交番があり、踏切の向こうには、三菱銀行が大きな姿を見せています。その向こう側は、第一小学校との間の森が見えています。今でも、このあたりには、鬱蒼とした森が残っています。その森の外れには、低地だったので、池が有ったのを思い出します。集中豪雨があるとこのあたりはよく水が出ていました。
これらの写真は、阿佐ヶ谷の商店街のサイトからお借りしています。殆どの写真はとらや椿山さんの撮られた写真ですね。
そのとらやさんも写っている商店街の役員さんの写真です。後ろ側に阿佐ヶ谷駅がはっきりと写っています。これだけ見ただけで、懐かしさで胸がいっぱいになります。
その後ろの風景は、こんな感じでした。改札口をくぐるとホームへの階段があり、改札口から見ていると、立川の駐留軍行きの白い線が入った一等車が通ったのを、覚えています。ホームの形状は典型的なつくりで、跨線橋で、反対側の北口に出られました。
その頃までは、国電(JR)の電車のことを『省線』と呼んでいました。戦前の鉄道省の線路という意味なのでしょう。中央線はその省線の駅だったのです。その頃の電車は、昔からの濃い茶色の車体で、戦前からの車両を使ってもいました。昭和32年頃から、101系のオレンジ車両として、快速に使われるようになってきました。それから、50年間も中央線ではオレンジ色の車両が使われてきたのです。大阪でも、環状線に使われていて、親近感と同時に大阪で走るオレンジ車両には、違和感も感じていました。
中杉通りが出来て、欅の並木がようやく植えられた頃は、阿佐ヶ谷駅の踏切もまだ大きくはなかったのです。
その反対側から見ると、左に交番があり、踏切の向こうには、三菱銀行が大きな姿を見せています。その向こう側は、第一小学校との間の森が見えています。今でも、このあたりには、鬱蒼とした森が残っています。その森の外れには、低地だったので、池が有ったのを思い出します。集中豪雨があるとこのあたりはよく水が出ていました。
これらの写真は、阿佐ヶ谷の商店街のサイトからお借りしています。殆どの写真はとらや椿山さんの撮られた写真ですね。
そのとらやさんも写っている商店街の役員さんの写真です。後ろ側に阿佐ヶ谷駅がはっきりと写っています。これだけ見ただけで、懐かしさで胸がいっぱいになります。
その後ろの風景は、こんな感じでした。改札口をくぐるとホームへの階段があり、改札口から見ていると、立川の駐留軍行きの白い線が入った一等車が通ったのを、覚えています。ホームの形状は典型的なつくりで、跨線橋で、反対側の北口に出られました。
by TANNOY-GRF
| 2016-07-02 08:30
| 昭和三十年代
|
Comments(6)
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リウー
at 2016-07-02 13:08
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全く見たことのない風景なのに、とても懐かしい感じがするのが、不思議です。
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TANNOY-GRF at 2016-07-02 21:06
リウーさん 本当ですね。白黒写真が私達の共通の記憶を読み覚ますからではないでしょうか?同じ頃撮ったカラー写真では、まったく違う感覚になりますから。
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Bellwood
at 2016-07-09 13:19
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こんなでしたかねぇ。私は昭和32年頃に1年弱ほど荻窪・沓掛町に住んでいたのですが、子供でしたし駅の様子はあまり記憶にありません。荻窪には貨物駅があって、やはり写真のような跨線橋を渡って改札に出たという記憶はあります。両親はすでに「国鉄」とふつうに言っていたような気がします。今の私たちがJRと言うのと同じでしょうか。祖父母の世代は「省線」と言っていましたね。母から解説を聞いた記憶があります。
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TANNOY-GRF at 2016-07-09 23:10
荻窪駅は、南口がメインだったと思います。都電も、当初は南口まで行っていました。北口の貨物駅はおぼろげに記憶があります。高架になった後、環八を越えた西荻窪との間に、貨物の受付があって、荷物を出しによく行っていました。いまのような宅配便が普及する前の話です。
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松原隆一郎
at 2018-06-09 13:31
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こんにちは。貴重な写真を公開して下さり、ありがとうございます。私はいま、1960年代半ばに現在の鳥正の位置にあった名曲 喫茶「モーツァルト」について調べています。写真はないものでしようか?従業員の方に尋ねましたが写真は知らないとのことでした。また、区役所近くで中杉通りからパール商店街に折れたところにあった「阿佐ヶ谷名画座」についても同じく写真を探しております。何かお心あたりはございませんか?こちらは現在のマンションにお住まいのご家族に尋ねましたが写真は見当たりませんでした。
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TANNOY-GRF at 2018-06-10 11:39
松原さん コメントありがとうございます。現在の鳥生の所というと、中華料理屋の新京の隣ですね。角は質屋さんだった様な気もします。一番街の写真は残念ながらありません。60年代の中頃は、オリンピックのころはまだ高校生だったので、一番街方面には行きませんでした(笑)。
阿佐ヶ谷名画座は、そのご阪急共栄になった場所ですね。最初は、東宝の封切館でした。モスラや宇宙大戦争、森繁の社長繁盛記などを見に行った覚えがあります。
阿佐ヶ谷には、北口のオデオン座、南口の松竹、この名画座、そして松竹の裏に出来た中央劇場、ここは大映と東映を代わりばんこにやっていたような気がします。三島由紀夫が見に来たとどこかに書いて有ったのを見たことがあります。
阿佐ヶ谷名画座は、そのご阪急共栄になった場所ですね。最初は、東宝の封切館でした。モスラや宇宙大戦争、森繁の社長繁盛記などを見に行った覚えがあります。
阿佐ヶ谷には、北口のオデオン座、南口の松竹、この名画座、そして松竹の裏に出来た中央劇場、ここは大映と東映を代わりばんこにやっていたような気がします。三島由紀夫が見に来たとどこかに書いて有ったのを見たことがあります。