2016年 06月 26日
オーディオの始まり |
小学生の高学年の時、夏休みの宿題で、父の手ほどきで、並四や高一をつくり、アンプ作りの面白さに目覚めました。四球スーパーまで作った様に思い出します。切っ掛けは、万世橋の交通博物館に行った時、ガード下のジャンク屋で、父がバリコンを見付けたことが切っ掛けです。スタチック型のSPも見つけて、家にあった部品を組み立てて作りました。それまでは、鉱石ラジオしか作ったことがなかったので、出来上がったときの嬉しさや誇らしかったことを良く憶えています。
二つのラジオを作った私の最大の楽しみは、日曜日の朝に放送される『立体音楽堂』でした。AM放送のNHK第一と第二の電波を使ったステレオの実験放送でした。並四と高一(高周波一段増幅)では、感度が違います。SPも音が悪い戦前のスタティック型でしたが、そこから聞こえて来た立体放送に感激しました。早速、SPをマグネティック型に交換して、棚の上に乗せて、その頃売り出されたコンソール型のステレオ装置のように鳴らしていました。私と同じかそれ以前の年代の方々は、その驚きを共有されると思います。
オーディオ熱は、どんどん高まり、ようやく普及してきたステレオレコードを聴きに、電器メーカーの試聴室に足を運びました。その頃、荻窪の駅前にスター座があった頃、その入り口の青梅街道の角に、日本ビクターのショールームがあったのです。そこでは、発売されたばっかりのハリーベラフォンテのカーネギーホールコンサートが、よくかかっていました。魅了されました。今でも、その時の感激は良く憶えています。その演奏と録音は考えると私の音楽の原点になっています。4トラックテープもいつも聞いており、とても59年の録音とは思えません。55年間も聞いてきたことになります。
そのステレオ音は、昔のコンソール型のステレオ装置でも、私の様なラジオを二つ並べたようなシンプルな装置でも充分楽しめました。ひょっとしたらシンプルな分余計な音がしないで良い音を聞いていたようにも思います。その頃のレコードプレーヤーは、クリスタル型のカートリッジで、イコライザーカーブと同じ様なクリスタルの特性上とその大きな出力で、レコードイコライザー無しでもなったのです。勿論、カーブは正確ではありませんし、針圧も重いので、レコードがやはり痛みます。それで、どうしても本格的なレコードプレーヤーが欲しくなりました。
同時に音が堅くて低音が出ないスタティック型のスピーカーも市販のラジオに付いていた、ダイナミック型のスピーカーにも変えていきました。一つずつですから、左右の形や大きさも違っていましたが、音量を調整すると立体音が出て来て感動したのを憶えています。
知識を得るために初歩のラジオや無線と実験、そして、最初は難しくて何が書いてあるか解らなかったラジオ技術と読む本が増えていきました。それと同時に、秋葉原通いが始まったのです。毎週、電車に乗って秋葉原に通いました。阿佐ヶ谷駅から省線(国鉄)で、時には丸ノ内線で、交通博物館に近い淡路町まで行ってたのです。何十年前の神田の古本屋街も、その頃点在していた輸入盤のレコード店のショーウィンドウを眺めてため息付いていました。月給一万三千八百円という歌がはやっていた頃、輸入盤は一枚4000円近くしていたのですから、手も足も出ません。
そうして、秋葉原通いや、神田、西銀座とオーディオ店やレコード店を梯子していたように思います。中学生は、お金がありませんから、銀座まで自転車で通ったこともありました。そうして、頭の中は高級オーディオ装置で一杯になっていったのです。
二つのラジオを作った私の最大の楽しみは、日曜日の朝に放送される『立体音楽堂』でした。AM放送のNHK第一と第二の電波を使ったステレオの実験放送でした。並四と高一(高周波一段増幅)では、感度が違います。SPも音が悪い戦前のスタティック型でしたが、そこから聞こえて来た立体放送に感激しました。早速、SPをマグネティック型に交換して、棚の上に乗せて、その頃売り出されたコンソール型のステレオ装置のように鳴らしていました。私と同じかそれ以前の年代の方々は、その驚きを共有されると思います。
オーディオ熱は、どんどん高まり、ようやく普及してきたステレオレコードを聴きに、電器メーカーの試聴室に足を運びました。その頃、荻窪の駅前にスター座があった頃、その入り口の青梅街道の角に、日本ビクターのショールームがあったのです。そこでは、発売されたばっかりのハリーベラフォンテのカーネギーホールコンサートが、よくかかっていました。魅了されました。今でも、その時の感激は良く憶えています。その演奏と録音は考えると私の音楽の原点になっています。4トラックテープもいつも聞いており、とても59年の録音とは思えません。55年間も聞いてきたことになります。
そのステレオ音は、昔のコンソール型のステレオ装置でも、私の様なラジオを二つ並べたようなシンプルな装置でも充分楽しめました。ひょっとしたらシンプルな分余計な音がしないで良い音を聞いていたようにも思います。その頃のレコードプレーヤーは、クリスタル型のカートリッジで、イコライザーカーブと同じ様なクリスタルの特性上とその大きな出力で、レコードイコライザー無しでもなったのです。勿論、カーブは正確ではありませんし、針圧も重いので、レコードがやはり痛みます。それで、どうしても本格的なレコードプレーヤーが欲しくなりました。
同時に音が堅くて低音が出ないスタティック型のスピーカーも市販のラジオに付いていた、ダイナミック型のスピーカーにも変えていきました。一つずつですから、左右の形や大きさも違っていましたが、音量を調整すると立体音が出て来て感動したのを憶えています。
知識を得るために初歩のラジオや無線と実験、そして、最初は難しくて何が書いてあるか解らなかったラジオ技術と読む本が増えていきました。それと同時に、秋葉原通いが始まったのです。毎週、電車に乗って秋葉原に通いました。阿佐ヶ谷駅から省線(国鉄)で、時には丸ノ内線で、交通博物館に近い淡路町まで行ってたのです。何十年前の神田の古本屋街も、その頃点在していた輸入盤のレコード店のショーウィンドウを眺めてため息付いていました。月給一万三千八百円という歌がはやっていた頃、輸入盤は一枚4000円近くしていたのですから、手も足も出ません。
そうして、秋葉原通いや、神田、西銀座とオーディオ店やレコード店を梯子していたように思います。中学生は、お金がありませんから、銀座まで自転車で通ったこともありました。そうして、頭の中は高級オーディオ装置で一杯になっていったのです。
by TANNOY-GRF
| 2016-06-26 10:22
| 昭和三十年代
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