2017年 09月 01日
上野の森のメジューエワ |
前日の金曜日は久し振りに深酒して、ワインは三人でシャンペンを含めて三本、そしてウィスキーも気がついたら封を開けていました。そんなわけで、演奏会当日の午前中は寝ていたので、家を出たのが開演一時間前、何時もならそれでも余裕で付くのですが、二日酔い気味なので日和って、駅までタクシーを待っていたら、土曜日の所為かなかなか来ません。そんなときに限って電車は事故の影響で遅れているし、上野駅のホームに滑り込んだときは開演5分前。上野の文化会館の小ホールの坂を上っているときには、待っている係員の方も心配されるほど。私の入場を待ってドアが閉まりました。
なんだか、何時もぎりぎりに到着している記事ばかり書いていますが、何時もはそんなことはなく、だいたい15分前には到着しています。会場前の30分以前だと外で待たされるので、開場した後ぐらいを目標ですね。川崎だと、阿佐ヶ谷から一時間以上掛かっていますから、開演前に気付け薬の白を一杯所望します。スパークリングやビールだとトイレが心配ですし・・・
そこだけ空いた自分の席に座って周りを見渡すと、回りは初老の男性陣でほぼ満席です。それでも、すぐに開演と言うことはなく、10分ぐらい経ってからメジューエワの登場です。所作が日本人的で、京都の深窓の令嬢という感じが何時もします。東京のという感じはしないのがわれながら不思議ですが。

早速、一曲目のベートーヴェンピアノソナタ27番が始まりました。目の前の1925年生のNYスタインウェイCD135が少し古めかしい音を出し始めました。今日は特に古めかしい響きで驚きました。明るい音で、和音も深いのですが、音の質が揃っていない感じがして、27番を聴いている最中は、少し心が落ち着きませんでした。
旧いNYスタインウェイでは1887年製をよく江口玲さんの演奏会で聴きます。モーツァルト以前には良いのですが、ベートーヴェン以降のダイナミクスが重要な曲には、現代のピアノの方がマッチすると思っています。今日のNo.135は現代と19世紀のピアノの中間ですね。ちなみに、このピアノは神戸の会社が所有してきて、東京まで輸送してきます。費用も掛かるのですが、メジュエーワの意向もあるのでしょう。
この動画の最後の方で、次回以降の東京文化会館もこの楽器を演奏すると言っています。彼女の日本語は完璧ですね。
27番は、後期のベートーヴェンのソナタの入り口です。彼女も、晩年の世界への序書のつもりで弾いていると言っています。つぎの28番は、違う世界観ですから、27番の方が合っています。続いて、30番の規律正しい音、正しいだけではなく倫理的にも清々しさを感じさせる演奏は多くはありません。彼女の楽譜を読みながら演奏するスタイルにも、常にスコアと対面して、確認している演奏を感じます。スコアを見ながら弾けると言うことは、実は眼をつぶっていても弾ける技量を必要とします。彼女は、スコアと左手の間を確認にしてるようです。右手を見ることはほとんどありません。時として右手だけで弾くときは左手は指揮をするようにタイミングを示しているのです。
ピアニストほど暗譜を求められる楽器はありません。その他には、ヴァイオリンがソロを弾くときぐらいです。ピアノももちろん、他の楽器と協奏するときは、必ず譜面を見ながら弾かざるを得ないのですが、ソロの場合は、暗譜の演奏を求められるのです。譜面を見ながら演奏していた大家はもちろんリヒテルです。しかし、リヒテルの譜面の読み方は、時として感情を爆発させたときのブレーキ役として譜面を使っているように見えるのです。
メジューエワの譜面は、楽譜に音楽に誠実に、譜面による規矩を作り、それを守ることによりあの高貴な倫理性を出しているのだと思います。譜面を読みながら弾くという行為は、当たり前のように見えていて実は大変難しい演奏スタイルなのです。彼女はそれを貫き通して音楽に誠実に仕えているのでしょう。
30番の二楽章を聴くとショパンのピアノソナタの第二番の旋律を思い出します。28番が新しい時代の幕開けを感じるのは、シューベルトのピアノソナタと同じです。モーツァルトもそうですね。突き詰めていくと時代性をも越える世界に入っていくのでしょう。
休憩時間に、エビネンコさんとお会いしました。先日のミューザ以来です。三月のヤマハホールでのメジューエワでもお会いしましたね。そういえば、その時の公演のCDが先日でました。何時もの若林工房の録音ですが、CDで聴いてもヤマハのピアノの音がします。そしてろくおんはワンポイントに近い方法なので、ホールの音の影響を凄く受けます。このホールでは、音がこもり気味ですが、その感じは良く出ていますが、ピアノの音をとるには良い環境とはいえませんね。それに、リヒテルのヤマハの音とは違うのは、チューニングの差でしょうか?チューニングと言えば、席に戻るとステージ上では、調律師がチューニングをやり直していました。やはり湿気で微妙に音がずれていたようです。音はだいぶ合ってきました。
後半の一曲目は、31番からです。最後の三曲のソナタの中では一番聴いているかもしれません。ピアニストに依って、全く違う曲のようにも聞こえます。バックハウス、ケンプ、リヒテル、ギレリス、ブレンデル、アシュケナージ、バレンボイム等々の巨匠たちの演奏を聴くたびにそう思うのです。第一楽章の出だしの優しさから、一転してベートーヴェンの世界が展開します。短いけど印象的な第二楽章のスケルツォを経て、第三楽章は複雑な構成の深いテーマから始まり、忘れられない変イ短調の『嘆きの歌』から変イ長調のフーガに移り、少しずつ盛り上がっていくところを、淡々と丁寧に、しかし、力強くメジューエワは弾いていきます。そしてあの和音の連続、そして無限の広がりをか感じさせる最後のフーガの上昇旋律。引き寄せられるように譜面の動きを追っている自分がいました。
メジューエワの譜面の読みは、イザベル・ファーストのときのようなバッハ自身の自筆の譜面を使って、ながれやダイナミクスを見ているのではなく、建築の設計図みたく音楽の構造を示しているのであり、その骨組みの中で最大限自分を爆発していくときの枠組みとして使っているのだと感じました。その意味ではリヒテルと同じですね。
そしてベートーヴェン特有のハ短調で書かれた最後のピアノソナタ32番が始まりました。どこから聴いてもベートーヴェンとわかる調整と構成です。ワルトシュタインやテンペストも、悲壮もすべての要素がこの最後のソナタの第一楽章を聴いているとよみがえってきます。協奏曲の皇帝のように、ピアノのフレームが軋むようにも鳴り響くのです。きわめてベートーヴェン的ですね。その意味で、1925年製のこのピアノが、メジューエワの音のサイズと合っているのではと思いました。休憩時間に調整した後の和音は破綻なく鳴り響いています。
第一楽章のきわめてベートーヴェン的な響きを終えて、第二楽章もある意味きわめてベートーヴェン的な旋律です。そして静かに変奏していくいくつものヴァリエーション、ベートーヴェンの最後のピアノソナタは、ハ長調で静かに締めくくられるのでした。その小さな日だまりのような、陽光が差してくる光がメジューエワの演奏にも感じられて幸せな気分で曲は終わりました。素晴らしい演奏でした。
イリーナ・メジューエワの日本デビュー20周年記念リサイタル Vol.1
2017年8月26日(土) 東京文化会館小ホール
オール・ベートーヴェン・プログラム
ベートーヴェン|ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90
ベートーヴェン|ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 Op.109
【休 憩】
ベートーヴェン|ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 Op.110
ベートーヴェン|ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
【アンコール】
ベートーヴェン|6つのバガテル~第5曲 Op.126-5
by TANNOY-GRF
| 2017-09-01 08:56
| 演奏会場にて
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