2007年 03月 23日
昔の阿佐ヶ谷(4) 永島先生との想い出 |
永島慎二さんと知り合った頃、ビリヤード屋さんの近くにあった漫画「若者たち」の舞台として有名な喫茶店の「ポエム」にもよく一緒に行っていました。ポエムに出入りしている人は、皆個性あふれる人でした。その頃の阿佐ヶ谷村は個性有る人達が集まってきていました。
どういう話からそうなったかは、いまでは思い出せませんが、勝負師でもある先生は、その頃は将棋に凝られていました。私も中学時代から始めた将棋には、高校生時代には、山登りと将棋しか出来ない生活を送っていました。折角入った大学も、学生運動には興味の無かった自分は、大学近くの将棋道場に入り浸って他流試合をしていました。それならばと、先生が誘ってご自宅で差すことになりました。勿論、道場でもまれている現役と普通の将棋好きとでは勝負になりません。何回負けても、悔しがって勝負を挑まれる先生に、勝っていた余裕でしょうか、差しながら、道具に凝られる先生には良い盤と駒を買って貰いたいと話をしました。その頃、四谷の碁盤屋さんに素晴らしい盤と駒がありました。貧乏学生には手の届かない夢を、売れっ子の流行作家に果たして貰おうとのさもしい魂胆でした。
そして、又何年か過ぎて、お宅の前を通りますと、見慣れた風景が一変して、そこにはマンションが建っていました。そこにいまでもお住まいかと探しましたが、見つかりません。二年前の、新聞に中央線沿いに住む方々のお話が、連載されていました。阿佐ヶ谷は永島先生のお話でした。大変懐かしく読ませていただいたおり、ある日、先生がお亡くなりになられたらしいとの記事が新聞に載りました。晴天の霹靂でした。こんなに速く去ってしまわれるなんて、そして、西荻に住所を移してられるのを知りました。早速、訪ねた私を先生の奥さまは、昔と変わらないご様子でご病気のことなどをご説明していただきました。話の中で、将棋の事になり先生は何時も私の事を話されていたそうです。形見分けに先生の掘られた将棋の駒を頂くことになりましたが、その時はそこになく、先生の字体と駒彫りを教わっていた先生を紹介してくださりました。
数日後、高田馬場にその方、増山さんを訪ねたところ、大変歓待をしてくださり、先生の駒とご自分が掘られた先生の字体の駒を、先生の替わりに形見分けと言って分けていただきました。増山さん、とても有り難たかったです。大事にしていきます。
そして、あなたがあの永島先生を将棋の駒つくりに導き入れた方でしたか、と言われました。良く意味が解らない私に、永島先生が、1990年に「週間 将棋」に掲載していた先生の連載エッセイーのコピーを見せてくださいました。そこには、四谷に行ったあの三十数年前の日が、事細かく書かれていたのです。そう、阿佐ヶ谷駅前で私に知らせてくれた記事のことです。そして、初めて先生が書いてくださった私の若き日が漫画になっていました。口角泡を飛ばして正論を言っている若き日の私を見たのです。
阿佐ヶ谷のあの永島邸の奥の細長い仕事部屋の光景が浮かんできました。熱くなって何度も勝負を挑んでこられた先生もそして、あの頃の自分をその記事の中で見ることが出来ました。
(引用の漫画は、週間将棋1990年9月5日号からです)
どういう話からそうなったかは、いまでは思い出せませんが、勝負師でもある先生は、その頃は将棋に凝られていました。私も中学時代から始めた将棋には、高校生時代には、山登りと将棋しか出来ない生活を送っていました。折角入った大学も、学生運動には興味の無かった自分は、大学近くの将棋道場に入り浸って他流試合をしていました。それならばと、先生が誘ってご自宅で差すことになりました。勿論、道場でもまれている現役と普通の将棋好きとでは勝負になりません。何回負けても、悔しがって勝負を挑まれる先生に、勝っていた余裕でしょうか、差しながら、道具に凝られる先生には良い盤と駒を買って貰いたいと話をしました。その頃、四谷の碁盤屋さんに素晴らしい盤と駒がありました。貧乏学生には手の届かない夢を、売れっ子の流行作家に果たして貰おうとのさもしい魂胆でした。
ある晴れた日に、先生はその盤を見に出かけてくれました。先生としてみればこてんぱんに負けた生意気な学生に案内されて、将棋盤を見に行っても面白くなかったはずです。新宿の通りを歩きながら、生意気な学生は懸命に知っている知識を先生に自慢していたのでしょう。だんだん不機嫌になってきた先生は、それでも碁盤屋さんまでは付き合ってくれました。何もない時代に貧乏しながら実力で成功した漫画家の自負心が、何一つ苦労せずに育ってきた(様に見える)生意気な学生の勧める高価な盤と駒を買わずに、実用上不足のない、将棋道場に有るレベルの盤と駒を買ったのです。若い自分は、思ったレベルの物を買っていただけずガッカリしました。口数も少なくなり気まずい思いで地下鉄に乗ったのを憶えています。
それから二十年ぐらい経った、平成の時代に年号が変わった頃、阿佐ヶ谷駅前の横断歩道の真ん中で、先生とすれ違いました。私は出張ばかりの仕事なので、あまり阿佐ヶ谷にもおらず、すっかりご無沙汰していました。先生はすっかりおやせになられて、病気だからと笑っていましたが、そうそうこの間、君の事を将棋の専門誌に書いたから見てくれと言われました。あの時は、君の勧めた駒や盤の価値が解らずに失礼したが、あれから駒の持つ美しさに目覚め、自分でも駒を彫っているんだとおっしゃってくださいました。私は若き日の自分の傲慢さと厚かましさを思いだし、道の真ん中で赤面していたのを思い出します。それから、しばらくしてその専門誌を探したのですが解らず、その事も忘れていました。
阿佐ヶ谷の街には住んでいても、休みの時しか阿佐ヶ谷に戻れない生活を何十年も続けていると、自分の阿佐ヶ谷の記憶は、遠く離れた人と同じように、その時の儘止まっています。
たまに、阿佐ヶ谷の北口で飲んだ折りには、先生のご自宅の前に立ち、変わらぬ家の風景に安心していました。一度か、二度先生のいないときに酔っぱらってお邪魔して、全く変わらない奥さまに挨拶をして帰ったこともありました。
それから二十年ぐらい経った、平成の時代に年号が変わった頃、阿佐ヶ谷駅前の横断歩道の真ん中で、先生とすれ違いました。私は出張ばかりの仕事なので、あまり阿佐ヶ谷にもおらず、すっかりご無沙汰していました。先生はすっかりおやせになられて、病気だからと笑っていましたが、そうそうこの間、君の事を将棋の専門誌に書いたから見てくれと言われました。あの時は、君の勧めた駒や盤の価値が解らずに失礼したが、あれから駒の持つ美しさに目覚め、自分でも駒を彫っているんだとおっしゃってくださいました。私は若き日の自分の傲慢さと厚かましさを思いだし、道の真ん中で赤面していたのを思い出します。それから、しばらくしてその専門誌を探したのですが解らず、その事も忘れていました。
阿佐ヶ谷の街には住んでいても、休みの時しか阿佐ヶ谷に戻れない生活を何十年も続けていると、自分の阿佐ヶ谷の記憶は、遠く離れた人と同じように、その時の儘止まっています。
たまに、阿佐ヶ谷の北口で飲んだ折りには、先生のご自宅の前に立ち、変わらぬ家の風景に安心していました。一度か、二度先生のいないときに酔っぱらってお邪魔して、全く変わらない奥さまに挨拶をして帰ったこともありました。
そして、又何年か過ぎて、お宅の前を通りますと、見慣れた風景が一変して、そこにはマンションが建っていました。そこにいまでもお住まいかと探しましたが、見つかりません。二年前の、新聞に中央線沿いに住む方々のお話が、連載されていました。阿佐ヶ谷は永島先生のお話でした。大変懐かしく読ませていただいたおり、ある日、先生がお亡くなりになられたらしいとの記事が新聞に載りました。晴天の霹靂でした。こんなに速く去ってしまわれるなんて、そして、西荻に住所を移してられるのを知りました。早速、訪ねた私を先生の奥さまは、昔と変わらないご様子でご病気のことなどをご説明していただきました。話の中で、将棋の事になり先生は何時も私の事を話されていたそうです。形見分けに先生の掘られた将棋の駒を頂くことになりましたが、その時はそこになく、先生の字体と駒彫りを教わっていた先生を紹介してくださりました。
数日後、高田馬場にその方、増山さんを訪ねたところ、大変歓待をしてくださり、先生の駒とご自分が掘られた先生の字体の駒を、先生の替わりに形見分けと言って分けていただきました。増山さん、とても有り難たかったです。大事にしていきます。
そして、あなたがあの永島先生を将棋の駒つくりに導き入れた方でしたか、と言われました。良く意味が解らない私に、永島先生が、1990年に「週間 将棋」に掲載していた先生の連載エッセイーのコピーを見せてくださいました。そこには、四谷に行ったあの三十数年前の日が、事細かく書かれていたのです。そう、阿佐ヶ谷駅前で私に知らせてくれた記事のことです。そして、初めて先生が書いてくださった私の若き日が漫画になっていました。口角泡を飛ばして正論を言っている若き日の私を見たのです。
阿佐ヶ谷のあの永島邸の奥の細長い仕事部屋の光景が浮かんできました。熱くなって何度も勝負を挑んでこられた先生もそして、あの頃の自分をその記事の中で見ることが出来ました。
(引用の漫画は、週間将棋1990年9月5日号からです)
by TANNOY-GRF
| 2007-03-23 00:11
| 好きな風景
|
Comments(6)
Commented
by
(Y)
at 2007-03-23 13:37
x
いやー、良い話ですねえ。しかしGRFさんの多趣味ぶりと交遊の広さには感心を通り越して呆れてしまいます(笑)。もちろん賞賛の意味ですよ。どうもおみそれ致しました。
Commented
by
GRFの部屋
at 2007-03-23 17:19
x
阿佐ヶ谷という土地と風土が、人を呼び、人を育てているのかも知れませんね。当地に生まれ育った人間にはわからないものも、有るのかも知れません。
Commented
by
Sugar
at 2007-03-23 22:12
x
なぜか、読ませていただいて涙が止まりませんでした。
とてもいい話です。なんども読ませていただきました。
とてもいい話です。なんども読ませていただきました。
Commented
by
GRFの部屋
at 2007-03-24 21:52
x
こうして、改めて思い出してみると、いろいろなことが有りました。その時は当たり前のことが後から考えると、いろいろな方の厚き思いに支えられていることに気が付きます。沢山の出会いが今の自分を形造っていると、つくづく思い知らされます。
先週永島先生の第三回遺作展に行って来ました.
何気なく検索していてこちらにだどり着き、素敵なお話を
読ませて頂きました。
僕もオーディオが好きなので、そちらの記事も楽しく拝見しました.
もしお近くにいらしたら、気楽にお寄り下さい.
何気なく検索していてこちらにだどり着き、素敵なお話を
読ませて頂きました。
僕もオーディオが好きなので、そちらの記事も楽しく拝見しました.
もしお近くにいらしたら、気楽にお寄り下さい.
Commented
by
GRFの部屋
at 2008-06-10 22:16
x
井村様、コメントありがとうございます。永島先生の遺作展は盛況だそうですね。昔からの友人たちも訪れたようです。初日には開始前から沢山お方々が並ばれていたと通りかかった家のものが話してくれました。先生とはこの同じ町に住んでいたことから知りあいになれました。それももう40年近く前のエピソードになりました。