2007年 03月 24日
昔の阿佐ヶ谷(5) お寿司屋さん |
スターロードを、「ポエム」よりもう少し荻窪よりに向かうと、右側に「舟寿司」さんという、お寿司屋さんがありました。阿佐ヶ谷文化村が華やかだった頃、文人や出版関係者でにぎわっていたお店です。亡くなられた先代のご主人に大変可愛がっていただきました。その頃出入りをしていた、カメラやさんの写真クラブで知り合ったように思います。その隣に有った喫茶店「トーン」でも、開店前にコーヒーを飲まれていました。お寿司屋さんと言うよりも、学校の先生といった風情の方でした。
その頃の学生の身分では、お寿司屋さんのカウンターに座って注文する事なんて、怖くてとてもできませんでした。一流会社の重役でした友人のお父さんが一度友人家族と一緒にご馳走していただいたことがありました。友人宅は、男の子三人でしたが、カウンターで注文するのに慣れていて、小学生だった一番下の子も、トロだのイクラだのとても高価なお寿司を簡単に頼んでいるのに驚きました。
喫茶店で舟寿司の親父さんに、普通の人でもお寿司屋さんでカウンターに座るなんて出来ないと、話したら、親父さんは笑って気楽に心配しなくても良いから、一度遊びにおいでといってくれました。それからです、カウンターで注文することが出来たのは。一流の職人が握るお寿司の味の差を実感することが出来ました。親父さんはお酒がお好きでしたから、客から薦められると、ゆっくりですが断らず飲んでいました。段々、ほろ酔いになってくると、握り方は、ますます柔らかく、特に穴子の握りは、よく蒸して柔らかくした穴子を、つぶさずにほんわりとにぎってくれたのです。今では数え切れない程お寿司屋さんにも行きましたが、あのような握り方には出会えません。
その頃、日中国交回復ができて、有名な茅台酒(マオタイチュウ)や汾酒 (フェンチュウ)が入ってきました。度数も53度以上と高く、値段も4000円以上していました。35年前の4000円は、いまでは一万円以上でしょうか、とても高価な酒でした。それでも、大変に美味しく、琉球の泡盛の味にも似て、独特の風味を出していました。同じ高梁を原料に使っていても、すっきりした汾酒とちがいます。当時の中国の平均年収に匹敵する高価な酒は、現在でも中国人平均月収より高い酒です。その高価なお酒を、中国に出兵していた親父さんは、現地での味を懐かしみ語ってくれました。いつかお礼にマオタイを持っていったことがあります。私も飲んでいましたからボトルキープでしょうか!?一緒にやっていました。私は、小さなグラスに、氷のかけらを入れて、どんどん変わっていく香り、泡盛に匂ひからフルーティーなリンゴ酒、杏酒に変わっていく様子を楽しんでいました。イタリアの蒸留酒グラッパと同じですね。それを親父さんは、日本酒の中に少しだけ落とすのです。そうすると、日本酒がマオタイの香りに変わり、何ともいえぬ優しいお酒になります。こんな高価なお酒は、もったいないから、また日本酒の味もよくなるからと楽しんでおられました。お寿司屋さんなのに、賄いように造った美味しいカレーも出てきました。奥の座敷で家族が食べているおかずがとても美味しかったです。
先代の親父さんが亡くなられても、息子さんが後を引き継いでいました。その後も二十年以上通ったのですが、お体を壊されて、大事を取りお店はそのまま居酒屋さんに貸され、ご自分は体調を考慮して大きなお寿司やさんの昼間だけ責任者で活躍されています。常連さんとの会話がいまではとても懐かしく思い出します。あの人達は、いまどこのお寿司屋さんに通われているのでしょうか?
その頃の学生の身分では、お寿司屋さんのカウンターに座って注文する事なんて、怖くてとてもできませんでした。一流会社の重役でした友人のお父さんが一度友人家族と一緒にご馳走していただいたことがありました。友人宅は、男の子三人でしたが、カウンターで注文するのに慣れていて、小学生だった一番下の子も、トロだのイクラだのとても高価なお寿司を簡単に頼んでいるのに驚きました。
喫茶店で舟寿司の親父さんに、普通の人でもお寿司屋さんでカウンターに座るなんて出来ないと、話したら、親父さんは笑って気楽に心配しなくても良いから、一度遊びにおいでといってくれました。それからです、カウンターで注文することが出来たのは。一流の職人が握るお寿司の味の差を実感することが出来ました。親父さんはお酒がお好きでしたから、客から薦められると、ゆっくりですが断らず飲んでいました。段々、ほろ酔いになってくると、握り方は、ますます柔らかく、特に穴子の握りは、よく蒸して柔らかくした穴子を、つぶさずにほんわりとにぎってくれたのです。今では数え切れない程お寿司屋さんにも行きましたが、あのような握り方には出会えません。
その頃、日中国交回復ができて、有名な茅台酒(マオタイチュウ)や汾酒 (フェンチュウ)が入ってきました。度数も53度以上と高く、値段も4000円以上していました。35年前の4000円は、いまでは一万円以上でしょうか、とても高価な酒でした。それでも、大変に美味しく、琉球の泡盛の味にも似て、独特の風味を出していました。同じ高梁を原料に使っていても、すっきりした汾酒とちがいます。当時の中国の平均年収に匹敵する高価な酒は、現在でも中国人平均月収より高い酒です。その高価なお酒を、中国に出兵していた親父さんは、現地での味を懐かしみ語ってくれました。いつかお礼にマオタイを持っていったことがあります。私も飲んでいましたからボトルキープでしょうか!?一緒にやっていました。私は、小さなグラスに、氷のかけらを入れて、どんどん変わっていく香り、泡盛に匂ひからフルーティーなリンゴ酒、杏酒に変わっていく様子を楽しんでいました。イタリアの蒸留酒グラッパと同じですね。それを親父さんは、日本酒の中に少しだけ落とすのです。そうすると、日本酒がマオタイの香りに変わり、何ともいえぬ優しいお酒になります。こんな高価なお酒は、もったいないから、また日本酒の味もよくなるからと楽しんでおられました。お寿司屋さんなのに、賄いように造った美味しいカレーも出てきました。奥の座敷で家族が食べているおかずがとても美味しかったです。
先代の親父さんが亡くなられても、息子さんが後を引き継いでいました。その後も二十年以上通ったのですが、お体を壊されて、大事を取りお店はそのまま居酒屋さんに貸され、ご自分は体調を考慮して大きなお寿司やさんの昼間だけ責任者で活躍されています。常連さんとの会話がいまではとても懐かしく思い出します。あの人達は、いまどこのお寿司屋さんに通われているのでしょうか?
by TANNOY-GRF
| 2007-03-24 11:40
| 好きな風景
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