2018年 04月 30日
ピリス(ピレッシュ)の最終公演 |
ピアノという楽器は、演奏する人の個性をそのまま表します。他の楽器とは違って、同じ楽器を弾いても、弾き手によって全く違う音が出てきます。それは、とっても当たり前のことなのですが、聴く度に不思議に思うのです。同じ鍵盤を押しても、ピアニストによって音が変わるのは、何故なのか、物理的にはすべてが解明されていませんが、ハンドルを持てば自然に運転できるように、ピアノも演奏が出来れば、自分の出した音を身体で感じて、その人の音が鳴り始めるのでしょう。問題は、そこからです。技術的な修練の他に、音楽的な経験や体験を重ねていかないと、音は出ても音楽にはならないからです。
<Written by Gonzalo Lahoz Posted: April 01, 2018> これ以上は、このスペイン語の雑誌を購入しないと解らない様です。
浜離宮ホールで行われた、MARIA JOÃO PIRESの演奏を聴きながら、ピリスだけしか出せない音、音楽があるのだと実感しました。今日の演奏会は、いわば、弟子達のために開いた演奏会です。ピリスと同じステージを踏むことにより、演奏の機会を増やしているのでしょう。譜めくりをした日本人の男の子も弟子の一人です。一緒に共演した、リリット・グリゴリアンもデビューさせている弟子のひとりですね。
今回、ピリスは、日本にほぼ一ヶ月間滞在して、各地でお別れ演奏会をする傍ら、マスタークラスもひらいて後進の指導に当たりました。今回の引退の理由につきましては、スペインの音楽雑誌 Platea Magazine のインタビューの中で、興味深い発言をしています。引退するといっても、演奏活動を停止するだけだそうです。後進の指導や、録音は、自分と折り合いのよい曲を続けていくと行っています。ブレンデルの引退みたいですね。ブレンデルも引退以来10年ぐらいになりますが、指導やプライベートな演奏は行っているようです。
ピリスはこのインタビューの中で衝撃的な告白をしています。
MARIA JOÃO PIRES: "I'VE NEVER HAD A GOOD RELATIONSHIP WITH THE PIANO"
いずれにしても、演奏活動をやめるという決断は、いまは私にとって、とても喜びを与えてくれました。ご承知の通り、音楽や他のアートとの違うプロジェクトを続ける道を選んだからです。これからも、若い人たちのために活動を続けていきますし、たぶん新しい録音も行えると思います。これまでは録音に充分な時間を取れなかったからです。これからは充分な時間を捧げられるでしょう。
だから、とてもハッピーな気持ちですし、前向きな感触も得ています。じっさい、否定的な感じは一切感じていません。聴いていただいている方々に別れを告げるという感じではないからです。聴いて下さる方々は、ホールの中だけにいるのではありません。至る所に居られるのです。理解していただきたいのは、音楽を聴かれるということは、つまり、我々は人間だと言うことです。いろいろな意味でも、音楽はコンサートホールだけで演じられるだけではありません。音楽は生きている証として存在理由を求められるし、どこででも演奏されなくてはならないし、特定の人だけではなく、すべてのタイプの人たちの前で演奏されるべきなのです。
私自身、音楽は誰かのためにその人達の前で演奏するだけに書かれたものではないし、音楽それ自体がわたしたちの精神の一部なのです。勿論、われわれは誰かが演奏してくれているピアノの前に座って聴くこともできます。でも、演奏を解ると言うことは、ステージの上でも、大衆の前でも替わりは無いのです。音楽はその為に書かれたわけではないし、あなたが生きている本当の理由でもないのです。
言っておかなければならないのですが、ピアノ演奏自体が私の引退する本当の理由なのです。私自身は、ついにピアノとは良い関係を築けないままで来ました。いいたいことは、勿論沢山の要素はあるのですが、私は私自身の為の時間が欲しいのと、演奏活動をしなくても良い生き方をしてみたいのです。そして、ピアノ自体は、楽器として遂に私に適合しなかったのです。
私の手の大きさは、ピアノ自体のおおきさからいうと小さすぎたのです。勿論、だからといってヴァイオリンを習いはしなかったし、チェロやクラリネットもそうです。でもこれからは異なった方法で、私自身のために演奏したい・・・フォルテピアノを演奏したと思うのです。出来れば先ほど言ったように、フォルテピアノで録音したいと考えているのです。より私の手の大きさに合って楽しいフォルテピアノで。これから学んでいくつもりです。技術的なところを習得して、今までとは違った居心地を良く感じる方法を見つけていきます。ピアノのまえで長年感じ続けてきた、歳とともに悪化してきた感じを直したいのです。勿論、それ以外にも引退を決意させてくれた大きな理由があります・・・
衝撃的な理由ですね。ピアノを充分に弾きこなすには、彼女の手が小さすぎた!これだけ演奏してきても本人はそう感じてきたようです。その為に努力をされてきたのでしょう。タッチを工夫して、一聴してピリスの演奏と解るほどの個性を作ってきたのにと思います。今回の演奏中も、CDでは決して聴くことのない、小指のミスタッチが何回か有りました。勿論、リズムが狂うことはないので、大きな瑕疵にはなりませんが、私の中のピリス感が、やはり引退するのも仕方がないのかと思いました。
先日のレオンスカヤは、多少のミスタッチは問題なく大きな音楽を構成していきます。ピリスは、常に高い目標を持って集中して演奏しているので、思うところがあるのかもしれません。弟子のグリゴリアンのタッチも良い方ですが、ピリスと並んで弾くには個性も、歌心もやはり違うと思わざるを得ません。ピリスが低弦側を弾いたときに、その音楽の違いを感じました。タッチがまるで違うのです。
ピアノは、タッチによって音が変わります。鍵盤が直接音を出しているわけではないのに、離れ具合、タッチのスピード、押す力、体重のかけ方、腰の位置、その人の骨の密度まで解るそうです。何よりも、音楽を構成していくリズム感、和音の響き、タッチの優しさ、すべてが音に反映していくのがピアノ演奏の凄さと怖さです。ピリスが、ピアノフォルテではなく、フォルテピアノに変更すると言うことは、ベートーヴェンの初期以前の音楽を中心に弾かれるのでしょうか?シューベルトも残して欲しいと、最後のD.940を聴いて思いました。シューベルトこそ、彼女の繊細な演奏にふさわしいのではないかと、シューベルト特有の転調時の色合いの変化の微妙さに感心していました。
ピリスの主義が主張されているのが、彼女の演奏会のチケット代です。サントリーホールでも、12,000円は彼女クラスの通常の場合に比べて、半分です。今日の浜離宮も7000円でした。弟子のための演奏会ともいえるでしょうが、日本最後のさよなら公演が、浜離宮でもこの値段というのは驚きでした。ここにも彼女の主張が現れているのでしょう。
Facebookに彼女の貴重なリハーサルの演奏が、載っています。ぜひ訪れてみて下さい。Facebookに登録されていない方でも、登録の要求に「後で」を押せば見られます。音も良いですよ。
追記:
先日のレオンスカヤは73歳、ピリスはもう、74歳なのです。アルゲリッチとポリーニはその三つ年上の77歳です。特にアルゲリッチはどこまで遠くに走って行くのか、見当も付きません。アルゲリッチのソロが聴きたいと願って、20年ほど経ちますが、震災の復興リサイタルなどの例外を除いて有りませんね。
ピアノの響きは、ひとりとして同じ響きはありません。善し悪しに関わらず皆個性的な、全員が違う音がするのです。将棋や碁がAIに勝てなくなったように、ピアノもそういうことがあるのでしょうか?ロール紙に残された自動ピアノの演奏は残っています。穴あきの譜は、デジタルの記録ですね。それを読み取り、アナログ変換させるとはたして良い演奏に復元するのでしょうか?
今回のピリスのさよなら公演を通じて、生のコンサートホールで聴く同時性と永遠に消えていく一回性、レコードCD、映像による再生音楽の差も考えさせられた演奏会になりました。
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by TANNOY-GRF
| 2018-04-30 03:03
| 演奏会場にて
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